神社仏閣を中心に 江戸の御利益・おまじない文化を集めます

日本人はおまじない好き。

願をかけたり、ゲンをかついだり、お守りを集めたり、日本人からおまじないを取ったら何が残るんだろうと言うくらい、みんな好きですよね。

いろいろ新しいおまじないも流行っていますが、このブログでは江戸時代から続く伝統的な御利益スポットやおまじないを中心に、時には江戸以外にも出向いたりしつつ紹介したいと思っています。

実は江戸の御利益信仰は当時の都市伝説だということがよくわかります。

全国の神社はこのサイトの動画で楽しんでください。
「パワースポットの神社をYouTubeで見る」

芝愛宕神社の都市伝説 その3

愛宕神社は江戸では有名な神社なのでエピソードがいくつもあります。
都市伝説的なものは、神社正面の男坂の石段が「出世の石段」として知られることでしょうか。

寛永11年(1634)三代将軍の徳川家光が、二代将軍・秀忠の命日の法要のため芝の増上寺に参詣しんですが、その帰りにこの愛宕山の麓を通りかかったんですね。そして山の上で美しく咲き誇る源平の梅を見て、誰か馬で男坂を登り、源平の梅を手折ってくるように命じたのだそうです。しかし男坂はすごい急勾配で、家臣の誰もが怯む中、讃岐丸亀藩主生駒高俊の家臣である曲垣平九郎が巧みに馬を操って男坂を登り、梅を手折って、再び坂を下り、見事、将軍に梅を献上したということなんです。
家光はとても喜んで「日本一の馬術の名人」との褒め、曲垣平九郎の名は天下に鳴り響いたというエピソードです。
この話は講談「寛永の三馬術」に出てくる話で、実話ではないとも言われていますが、なおさら都市伝説的な感じがしますね。

このエピソードのせいで明治以降、3人が馬で男坂の石段を上がり下りしています。その3人とは明治15年(1882)の石川清馬(強心流馬術師)、大正14年(1925)の岩木利夫(参謀本部部員)、昭和57年(1982の)渡辺隆馬(スタントマン)。

また、万延元年(1860)桜田門外の変大老井伊直弼を襲撃した水戸藩士は、この神社に集まり、神前に神さまのご加護を祈念してから出発したといいますし、慶応4年(1868)官軍の参謀・西郷隆盛との交渉に当たった幕府の軍事総裁・勝海舟は、西郷を誘ってこの愛宕山に登り、眼下に広がる江戸の風景を見せて、戦火の悲惨と無益を説き、西郷をして江戸無血開城に同意せしめたことでも有名です。

この神社、かなり幕末の大事な部分に関係しているんですね。
その頃の江戸の景色を見られるものなら見てみたいものです。

芝愛宕神社の都市伝説 その2

愛宕神社、6月24日の縁日ですが、この日は子どもの虫除けや癪の病に効くというといって境内に青ほうづきを売る見せもたくさん出たそうです。
今と違って、体の中に寄生虫がいるのが普通の時代ですから、子どもをもつ親にとっては虫除けのご利益にはすがりたいところだったわけですね。

でも、このご利益は出所のわかっている都市伝説だったらしいのです。
青竜寺前というところに旗本の倉橋内匠の屋敷があったんですが、その倉橋家中間(武家奉公人のひとつで、足軽よりも低い身分で非武士身分の者で、脇差1つを挿し、時には戦いにも参加し、平時は雑用を行っい、大名行列等では奴(やっこ)の役を務めたと言われる)のある者が、青ほうづきを丸呑みすると虫や癪の病気が治るとの愛宕権現のお告げがあったと言い出したことがもとである、と山東京伝が述べているということなんですね。「いいかげんなことを言ったのがはじまり」と書いているそうなんですが、このお告げ、本当だったかもしれませんし、多くの人が信じればまたご利益も実現してくると言うのが庶民信仰の面白いところです。

防火の神などいろいろご利益の芝愛宕神社 その1

芝の愛宕神社は都内では数少ない急な階段を上る神社です。標高は26メートルなんですが、都内で最も高い「天然の山」なんですね。
ですから江戸の人たちにとって、特別の山だったわけです。

鉄道唱歌にも「愛宕の山に入りのこる 月を旅路の友として」と歌われていますが、この神社は、
慶長8年(1603)、徳川家康の命により、江戸の防火のために祀られました。

その50年前、天正十年(1582年)に本能寺の変を知った徳川家康が間道を抜けて伊勢から三河に帰り着いたときにこれを助けたのが信楽の豪族、多羅尾光俊で、彼の屋敷の中に祀ってあったのが愛宕権現だったところから、幕府を開いたとき、江戸城の南鬼門に当たるこの山に、多羅尾光俊から献上された愛宕権現蔵を祀って愛宕神社としたという話が残っています。

そしてこの頃はまだ防火の神ではなかったんですが、五代将軍綱吉が火防せの守護としてから火除けのお札を出すようになり、9月23,24日を例大祭とし、毎月24日を縁日としたため、庶民の信仰も集めるようになったということです。

「伊勢へ七たび、熊野へ三度、芝の愛宕さんへは月参り」という歌が残っているほどで、特に6月24日は「千日詣で」、「4万6千日」と称して4万6千日参詣するのと同じ功徳があると言うことで大いに賑わい、市も立ったんですが、どろぼうの被害に遭わない商人は巾がきかないと言われたほどの人出で「泥棒市」と呼ばれたこともあったそうです。世田谷にもどろぼう市がありますが、謂われが違いますね。江戸らしい都市伝説です。

非行の足を洗う? 洗足池

東急池上線洗足駅の名前の由来となった洗足池ですが、この名前はもともと千束だったという説が有力です。
この地名は平安時代末期の文献にも見られ、その由来としては仏教用語の千僧供料(せんそうくりょう)の寺領の免田であって、千束の稲が貢租(税)から免除されていたからだとする説や、ここの「大池」の水が水源として灌漑に利用されたので稲千束分の税が免ぜられていたとする説などがあるということですが、のちに、身延山久遠寺から常陸へ湯治に向かう途中の日蓮が、池のほとりで休息し足を洗ったという言い伝えが生まれ、千束の一部が「洗足」となったようです。

その日蓮上人エピソードのもう少し詳しい解説では、弘安五年(1282)年に池上領主の館に向かう道すがら、この池を通りかかり、おりしも中秋の日暮れ時で、美しい池の美しさにみとれて池畔の松に袈裟をかけてしばし憩い、足を洗ったということです。

その「袈裟掛けの松」と言われる松は三代目だそうですが、今も残っています。
その日蓮上人関係の言い伝えとしては他に、この池が水の字の形をしているのはその時に上人が足を洗ったとき、水の字を書いたから、というものもあります。

そして都市伝説としては、この池にいた毒蛇が上人に調伏され、すぐそばの御松庵妙福時というお寺に祀られたという伝えから、ある父親が非行少年の息子をここに連れてきて足を洗わせたら上人の力で真人間に戻ったという話があり、だから悪の社会から抜け出すことを「足を洗う」というという話が出来ているそうです。

最近は非行少年という言葉はあまり聞かれなくなりましたが、おまじないは通用するかもしれませんね。

現在、洗足池を含む一帯は大田区立洗足池公園となっていて、ここには勝海舟のお墓もあります。

大田区南千束二丁目14番5号

王子稲荷 その2

前回、王子稲荷にまつわる装束稲荷の紹介をしましたが、王子稲荷自体にどんなご利益があるかというと、もともとは稲作の神さまなので農民たちが豊作を祈願して参詣していたわけですが、今はすっかり農地もなくなってしまいました。

毎月午の日が縁日で、2月初午の日、二の午三の午にはにぎわいます。 社務所で火防(ひぶせ)の凧、守札がだされ、境内にも凧を売る店が立つんですね。

何故、凧が火防になるかというと、凧をあげると風を切って空に舞い上がります。そして火事で一番恐ろしいのは風が吹くことですね。
風が吹かなければ被害も少ないでしょうが、風が吹けば大火事となり、多くの家が焼けてしまいます。
特に「火事と喧嘩は江戸の花」などと呼ばれた江戸時代では火事がもっとも恐れられていたんですね。

ですからこの凧の「風を切る」様子から、恐ろしい風を断ち切って欲しいという願いとなり、凧がお守りとなったというわけです。

そしてこの凧は「奴(やっこ)凧」。虐げられた庶民の象徴「やっこ」が空に上がり武士を見下ろすところに江戸っ子が痛快を覚えたという説もあります。

北区岸町1-12-26

http://www.tokyo-jinjacho.or.jp/syoukai/20_kita/20002.html

王子稲荷 1 衣装のご利益「装束榎」

落語「王子の稲荷」で有名な王子稲荷は、唯一の都電が走っている王子にあります。高台にかなりひろい境内があり、樹も多いんですが、この王子稲荷にはまたいろいろな伝説が残されています。

かつて王子二丁目交差店のあたりに「装束榎」と呼ばれる大きな榎の木がありました。

毎年大晦日になると関八州、関東地方のあちこちからキツネがこの榎の下に集まってきて、翌年の官位を決め、それぞれが装束を整えて王子稲荷に参詣をしたというんですね。

この榎はそのための集合場所であり、衣装を着る場所だったわけです。

そして夜ですから狐火を灯して参詣する訳ですが、その灯は榎から山の神社まで延々と続き、それを見た農民たちは燃える狐火が多ければ多いほどその年が豊作になるとして喜んだそうです。

昔はあのあたりも一面の農地だったんですね。

ただ明治も終わりの頃になるとこのあたりも住宅地として開発され始め、巨大な榎が宅地造成の邪魔だということで、周囲の反対を押し切って質屋の斉藤弥兵衛という頑固者が切り倒してしまったそうなんです。

果たしてその弥兵衛はその晩から高熱が出てコンコンと咳をしながら死んでしまったとか。

たたりを畏れた人々は榎の怒りを鎮めるためにそのあたりを榎町と名付け、切り倒して榎の根を埋めてお宮を作り、それが「装束稲荷」となりました。

「衣類に不自由しない」「衣装大尽になれる」ということで、水商売の女性たちから特に人気があったそうです。

今ではこの伝説を元に、大晦日は「きつねの行列」が行われています。

装束稲荷神社
北区王子2-30-1

http://ouji-kitsune.jp/

どうしてお稲荷さんは狐なのか

次回、王子稲荷のことを紹介しようと思いますが、今回は稲荷と狐の関係について一説を紹介しましょう。

稲荷は字でわかるとおり、稲作の神さまですが、いつからか狐がそのお使いみたいになって、狐の石像や焼き物が奉納されたり、狛犬の代わりに狐の門があったりするようになっています。

後小松天皇の明徳年間(1390-93)のこと、伊奈利山の神社に日頃からお稲荷さんを信仰していて、お参りを欠かさなかったある年老いた命婦がいたそうです。その老婆が狐を飼っていて、お参りの時は必ずついてきて、先に社のところに行ってチョコンと座っていたそうなんですね。それが習慣になっていたので、神社の人も狐が来るとその老婆が来ると云っていたほどだったそうです。

やがて老婆の足も衰えて狐だけが来るようになり、そのうち家に戻らず山に棲むようになったので、参詣者は命婦狐と呼んで油揚げをあげていたんですが、やがてその狐も死に、人々がかわいそうだということで社のかたわらに埋めて、狐の姿の石を彫り、社前に置いたのがそもそものきげんである。
という話です。

まだ都市といえるほどの都市もない時代ですが、完全に都市伝説っぽいですね。

そういえばペットブームといわれる現代ですが、日本の狐をペットにしている人は少ないようですね。お稲荷さまとすれば縁起が良さそうだけど、「キツネに化かされる」という伝説もあり、敬遠されるのかも。
また買うのがむずかしく、なつかないから、というのも流行らない大きな理由でしょうが、外国産のペット用キツネというのはマニアでは人気らしいです。

風邪除け他いろいろあります 芝大神宮

芝大門にある芝大神宮は芝で最も古い神社で江戸っ子からは「芝の明神さま」と呼ばれて親しまれてきました。
創建が1005年ですから、1000年以上の歴史があります。
祀られている神様は天照大神豊受大神なので、これは伊勢神宮と同じですね。
もともとは今の東京タワーのあたりにあって「飯倉神明」とか「日比谷神明」とか「芝神明」んどと呼ばれていたのが慶長年間に今の場所に移り、今の名前になったのは明治になってからです。

芝大神宮の例大祭は10日間にわたって続くのが有名で、だらだら続くので俗名として「だらだら祭り」と呼ばれていたのが今では神社でも「だらだら祭り」と呼ぶようになっています。

そしてここでは生姜を売る「しょうが市」があるんですが、これは神社が鎮座した当時、周辺に生姜畑があったところから、神前に奉られ、又参拝者に売られたもので、根が大きいので「根っかち生姜」ともいいます。

そして神社から出す生妻を食せぱ風邪を引かないといわれているため、風邪除けの神社として親しまれてきたわけです。

このお祭りの時にだけ売られる千木筥(ちぎばこ)という箱も有名で、「千木=千着」と通じることから、衣装が増えて縁結びにもご利益ありといわれていて女性に人気があります。
中に豆が入っているので部屋に吊しておくと雷除けにもなるとも言われます。

また摂社の住吉神社は古くは御手洗社と称して、戦前まで境内にあった泉頭という池泉の守護神として住吉三柱神を祀り、摂社としたものです。
寛永10年(1633年)3 月、3代将軍家光鷹狩りに出向いた時、目にゴミが入って難渋していたところ、この池泉の水で目を洗うとたちどころに快癒したため、感じ入った家光は当神社への尊崇の念を篤くし、老朽化した社殿等の造営に着手したといい、一方、その評判を聞きつけた江戸市民も池泉に参詣して眼病快癒を祈請するようになって以来、眼病平癒に霊験がある神とされたといいます。

いろいろご利益がある芝大神宮ですね。

東京都港区芝大門一丁目12番7号

http://www.shibadaijingu.com/

嫁と姑の和合   長命寺

嫁の味方のおまじないの次は、嫁と姑が仲良く過ごせるというおまじないです。

練馬区にある長命寺は「東高野山」として江戸時代から人々の信仰を集めていた名刹です。
後北条氏の一族である増島重明(北条早雲のひ孫にあたる)が出家して慶算阿闍梨になる)になったのですが、高野山五穀断ちをして修行中に弘法大師が夢に現れ「自分が昔、諸国行脚をしていたとき、讃岐の国で自分の像を彫った。その像が剣山にあるのでそれをお前の里へ持って行き、ふさわしい寺を興して東の高野山とせよ。紀州の高野山は女人禁制なので東の高野山ではそのような制限をせずに衆生を救え」というようなお告げをしたという伝説が残っています。

それで慶長18年(1613年) に弘法大師像を祀る庵を作ったのがこの寺の始まりといわれています。その後、甥の重俊が紀州の高野山を模して境内を整えたことから、人々は「東高野」と讃え、寺門に通じる道も東高野道と呼ばれることになり、寛永17年(1640年) 奈良・長谷寺の小池坊秀算により十一面観音像が作られ、これを本尊とした「長命寺」となったそうです。

弘法大師忌の4月21日に普段は秘している奥の院を信者たちに開放する、「奥の院・弘法大師御開帳法会」が行われますが、寺を女人にも開放したせいでしょうか、かつては「花嫁市」が行われ、姑に連れられた近隣の新妻たちが花嫁姿で境内に参拝し、互いを祝福しあったといいます。嫁と姑が手を取り合って参詣するとその後お互いの中が平和になるという信仰になっていたんですね。

今では植木市になっているようですが、この日は法要に際して子どもたちの身体健全を祈願して稚児行列が行われています。
この稚児行列は江戸時代中期から続いていて、稚児の対象は、4〜7歳くらいで昔ながらの古式ゆかしい装束に身を包み、親子が2列になって社務所前から境内に入り、弘法大師、奥の院、本堂の順に参詣します。

今では「花嫁市」とは呼ばれなくなってしまいましたが、こういう都市伝説は復活してもらいたいですね。
また、理由ははっきりしませんが、江戸時代から演劇関係者の信仰も篤かったそうです。

http://chomeiji.org/
東京都練馬区高野台3-10-3

正しいものを勝たせる神 常磐弁天

世田谷区上馬にある駒留八幡神社の中に常磐弁天があります。
駒留八幡神社は徳治3年(1308)このあたりの領主であった北条左近太郎入道成願が、八幡大神を勧請したということですが、この時、成願は自分の乗った馬が留まったところに社殿を造営したことから「駒留八幡」と称するようになったと伝えられています。

豪徳寺の話にも出てきましたが、その後世田谷吉良氏の領地になりましたが。永禄年間(1558〜70)世田谷城主の吉良頼康には12人の側室がいましたが、その中でもとりわけ美しい常磐をことのほか愛したので、他の11人の側室たちに嫉妬されました。
そして側室たちは身ごもった常磐の子は殿の子ではないという告げ口を始めました。
最初は嫉妬がらみの戯言と取り合わなかった頼康も、側室たちが口裏を合わせたために常磐を疑うようになり、ついに常磐が自害してしまいました。これには頼康が手打ちにしたという話もあります。

そして後日、自分の愚かさから罪のない常磐が、子どもを身籠もったまま自害したことに自責の念にかられた頼康は子どもを駒留八幡宮に祀り、若宮八幡と称し、また、常盤を弁財天として厳島神社に祀ったとされています。

そんなわけで、里人からは「正しいものを勝たせる神」とりわけ、離婚訴訟中のものや姑にいびられている嫁さんたちが人目を忍んでお参りに行けば、ご利益を授けてくれるという信仰を集めるようになったんです。

ですから、この常磐弁天はお嫁さんの味方、ということになりますね。
ところで、この側室の常磐は有名な常磐御前とは同じ名前ですが別人です。

東京都世田谷区上馬五丁目35−3

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